第十八回多治見商人物語

美濃焼技術の変遷C(大正・昭和時代)

 

国内最大の生産量を誇る美濃焼について、明治時代に絵付けの分野でその製造を支えた摺絵や銅版転写、石版転写などに続き、大正から昭和にかけては更なる技法が開発されていった。そして消長を繰り返しながら、今日においても各種の方法によって美濃焼を彩り続けているのである。
 ゴム版絵付は、ゴムスタンプを用いて簡易に絵付けするものであり、大正7,8年(1918,19)頃より登場した。すでにこの技法については、明治時代にヨーロッパから国内に伝えられていたものの、曲面の多い器に絵付けするのは困難であり、普及することはなかった。その後、これを解消するために図柄が施されたゴムの部分と、握り手との間に分厚いスポンジを使用することが考えられ(写真)、ようやく実用化にたどり着いたのである。すでに開発されていた銅版転写のような繊細さや、石版転写のような写実性には劣ったものの、製版が安価にできて小ぶりな文様に適し、絵付けの工程も非常に簡素なことから広く普及していくこととなった。下絵付、上絵付ともに使用することができたが、後に記すスクリーン印刷の開発によって衰退することとなった。スタンプのように押すことから、「ポン押し」とも呼ばれていた。
 スクリーン印刷は細かな網目状のスクリーン(ナイロン、テトロンなど)に白く残したい部分を目止めして、絵具を通過させることで図柄として印刷(孔版)するものである。当初、スクリーンに絹布が使用されていたことから、シルクスクリーンとも呼ばれていた。捺染の技術をヒントとして明治38年(1905)にイギリスで考案されたといわれ、陶磁器に限らず様々な分野で使用されている。美濃焼の絵付けへの応用に着目したのは多治見市陶磁器意匠研究所であり、研究の末、昭和37年に実用化にこぎつけた。そして、写真製版やグラデーションの表現、自動印刷機の開発などによって、今日でも美濃焼における上絵付の主要な絵付技法となっている。
昭和50年代初めには下絵パッド印刷が開発された。この技法は、凹版に刷り込んだ呉須をウレタン質の転写体(タコ)に付着させ、それを直接素焼きの器面に押し付けて印刷する方法である。広範囲にわたる印刷には適さないが、弾力のあるパッドを使用しているため曲面への印刷も可能であり、手描き特有の「ダミ」などの表現にも優れている。また、ベルトコンベアシステムによって、自動的に絵付けができるようにもなった。「タコ印刷」とも呼ばれており、陶磁器以外にも様々な分野で応用されている。
 これまで4回にわたって触れてきたとおり、明治時代以降、さまざまな量産のための絵付技法が開発・導入され、ニーズに応じて美濃焼を色とりどりに着飾ってきた。ここでは主に絵付けによる技術の変革をたどってきたが、成形や焼成、さらにはデザインの改良なども並行して行われており、これらの下支えがあって、今日ある美濃焼産地が形成されてきたのである。

第十七回多治見商人物語

美濃焼技術の変遷B(明治時代)

 

(承前)岐阜県立多治見工業高等学校が所蔵している近代の陶磁器資料のなかから、製作年が記されたラベルを伴う作品を通じて美濃焼技術の変遷を追っていきたい。
 8「辰砂徳利」(明治26年のラベルが添付 以下、年号のみ記載)にみられる辰砂とは、酸化銅を呈色剤に用いて還元焼成することにより赤く発色させるもので、中国の北宋時代から作り続けられている。ちょうどこの徳利の製作年と同時期の19世紀末、フランスのエルネスト・シャプレが中国陶磁の影響を受けて辰砂を焼成していた。国内でも東京の竹本隼太が手掛けるなど洋の東西を問わず注目される存在となり、このような流れの中で本製作が試みられたのではないかと考えられる。これまでみてきた絵付技法の進展を示すものとは異なるが、実に興味深い。

17-1.jpg
9「赤絵銅版花筏文小皿」(明治28年)は、上絵付に銅版転写を応用したものである。下絵付の銅版転写については前号で記したとおりであり、その後、多治見の加藤小三郎が製版や印刷、転写の方法に工夫を凝らして明治28年(1895)に改めて上絵付による技法として完成させた。絵付部分の脇に「多東舎」と記された小三郎の窯の屋号がみられることから、同氏が手掛けたものであることは明らかであり、製作年と技法の完成時期がビタリと重なっている。優雅な絵付けが施されており、量産のための新しい絵付技法として汎用されることとなった。

17-2.jpg
10「釉下彩東下り図徳利」(明治33年)について、釉下彩とは文字通り透明釉の下に多色の絵付けが施されたものであり、この徳利にはピンクや緑、青、黒などの色が使われている。釉下彩は19世紀末から20世紀初頭にかけて世界的な流行がみられ、海外ではデンマークのロイヤル・コペンハーゲンをはじめ、ドイツのマイセンやフランスのセーヴル、スウェーデンのロールストランドなどの作品を飾った。国内でも東京や横浜、美濃、瀬戸、有田の著名な窯では世界と拮抗した状況にあり、美濃では、西浦焼で知られる西浦圓治の釉下彩作品が有名である。このようなグローバルな流れを背景として、この徳利はつくられたといえる。

17-3.jpg
11「石版赤絵人物図小皿」(明治34年)は、石版という石灰石の平板を使った平版印刷であり、それまでの銅版による凹版印刷とは全く異なる。緻密な表現に秀でており、写真風の絵付けも可能となった。この技法は、明治34年(1901)に多治見の小栗国次郎が、寝食を忘れるほどの研究の末に完成させたもので、同じ年号が記された小皿には女性の肖像が白黒写真のように浮かび上がっており、初期の状況を示す貴重なものといえる。

17-4.jpg

以上のとおり、明治期における美濃焼技術の変遷について、主に絵付け技法によるものを取り上げてきた。引き続き、大正時代以降における流れをみていくこととする。
(次号に続く)                                         

第十六回多治見商人物語

美濃焼技術の変遷A(明治時代)

(承前)岐阜県立多治見工業高等学校には1,500点を超える近代の陶磁器資料が所蔵されている。その中に、他の例をみない89点もの製作年代を記すラベルが付された資料郡が存在しており、引き続き、これらを通じて美濃焼技術の変遷を追っていきたい。

5.jpg

5「摺絵染付雲鶴文徳利」(明治16年のラベルが添付 以下、年号のみ記載)は、摺絵の技法を用いたものである。文様を切り抜いた型紙の使用によって、手描きに代わる効率的な絵付け方法となった。

多治見市史によれば、「明治15年(1882)のころ、脇之島の上田幸右衛門は伊勢白子から型紙職人長谷川久之助ら三人を招いて型紙をつくらせた」とされ、その始まりの時期と製作年がおおむね符合している。この技法は、陶磁器に関わる国内需要の高まりに伴って導入されたものであり、量産体制を確立していく美濃焼産地の嚆矢となる出来事といってもよい。摺絵による雲鶴の文様をつぶさにみると大変緻密に施されていて、量産のための技法とは言え一切の手抜きは見られない。なお、89点の資料中に摺絵製品は、他にも明治19年、同28年、同44年の3点が存在し、次に記す銅版転写の導入以降は急速に衰退していったとの指摘もあるが、実際には併存していたことがうかがわれる。また、後年に至るほど粗雑なものとなっていく傾向も見受けられる。

6.jpg6「銅版染付小皿」


7.jpg








7「銅版染付花鳥図小皿」


6「銅版染付小皿」(明治21年)、7「銅版染付花鳥図小皿」(明治21年)は、先にも触れた銅版転写を用いて絵付けを施したもので、摺絵に続く、一層効率的な絵付技法である。多治見市史には、「明治21年、渡辺町(現、広小路4)の加藤元次郎、窯町の加藤米次郎らが、名古屋より銅版彫刻師を招き、多額の金を与え製作法を教わった。…後に岐阜県陶磁器講習所(多治見工業高校の前身)の嘱託教師となる太田能寿は、加藤米次郎らの銅版印刷の研究を聞いて、これに参画し、明治22年に特許を取ることができた」
とある。これら両製品についても、ちょうどこの時期に完成したものであり、摺絵同様に最初期に作られた製品には緻密な絵付けが施されていて、大変に完成度が高い。以降、長らく美濃焼の日用品に施される絵付技法の主流をなしていくこととなり、本資料中にも数多くの銅版転写製品がみられる。

こうした製品を通じて気づくのは、年号が記された各資料が、毎年膨大な量の陶磁器がつくられていたなかで無作為に抽出されたものではなく、技法の導入期などの特別な意味を持ったものとして選択されていたということである。今日、美濃焼の歴史を裏付ける貴重な作品群を形成しており、改めて加藤助三郎の先見の明を称えたい。

(次号に続く)

第十五回多治見商人物語

美濃焼技術の変遷@

 古い陶磁器の製作年代を正確に知ることは難しい。考古学的な手法や、文献などの記述によって探ることはできても、1年単位で示すことは、ほぼ不可能である。ただし稀に、作られた年がズバリ製品に記されているものが存在する。正確な年が解れば、そこに使われている技法やデザインの使用時期もつぶさに確認できる。さらには、似たような陶磁器のおおよその製作年なども芋づる式に推定できるなど、非常に貴重な情報源となりうるのである。
このような可能性を秘めた陶磁器に関して、89点もの明治時代に作られた美濃焼が、第2回の多治見商人物語で紹介した多治見工業高等学校の資料の中に存在している。これらには、製作年を記したラベルがそれぞれに貼られており、もともと、明治38年(1905)に当時の宮内省の役人が加藤助三郎のもとへ来店した際に、美濃焼の概要を説明するために用いたもののようである。そののち、多治見工業高等学校へ寄贈されて現在にいたっている。
製作年が一定期間内で明確となっている陶磁器群の存在は、国内の他産地を見渡しても例がなく、極めて貴重といえる。そこで、今号から数度にわたり、これらの資料の中から主要なものを選び出し、従来から知られている文献資料等と照合しつつ、明治期における美濃焼の技術・技法について時代を追って紹介していくこととする。
1「染付雲気文奈良茶碗」は、明治元年(1868)のラベルが添付されている(以下、ラベルに記された年号のみ記載)。美濃で磁器が焼成できるようになったのは、江戸時代の文化・文政年間(1804-29)頃であり、その流れを汲むように、いまだ黒味を帯びた山呉須による手描きの絵付けが施されている。
2「染付蝙蝠文煎茶碗」(明治8年)は、引き続き手描きによるものであるが、新しく酸化コバルトが使用されている。この酸化コバルトについては、肥前有田の松村九助が明治7年(1874)に長崎で大量に買い集めて、名古屋を拠点に多治見などの周辺の産地にも販売していたことが知られている。鮮やかに発色する酸化コバルトが汎用されるようになった初期のものといえる。
3「青磁花籠文小皿」(明治10年)は、伝統的な青磁ではなく、安定した黄緑を発色するクロム青磁と呼ばれるものが施されている。これまで、美濃におけるクロム青磁の導入時期は特に触れられてこなかったが、明治10年には使用されていたことが確かめられた。
4「白磁カップ」(明治15年)は、薄手のカップであり、明治17年(1884)に土岐市妻木の水野勘兵衛が伏せ焼きによる薄手の白磁カップを完成したことが知られていて、相互の関連も考えられる。その後の妻木は、カップの生産で名を馳せていった。
(次号に続く)


第十四回多治見商人物語

多治見貿易会社の設立

幕末から明治初期の貿易

開国当時の日本人は、外国の所在すら知らない状況下であった。横浜・神戸の居留地に店を構えた外国商館へ、日本の業者が売り込むことにより商いが成り立つもので、外国商人の有利な条件によるものが大半であり商取引は困難であった。その様な状況下であったが、明治20年代になると、一時期西浦商店(濃陶社)に奉公していた春田鉄次郎などはアメリカニューヨークより出張していたA・Aバンタイン社横浜支店長のコルトン氏に愛顧を受け、その基礎を固める事が出来た。
当時の日本陶磁器は、技術も優れていたので重要な輸出品として販売されました。
アメリカに市場を求め会社設立
同28年(1895)日本は、不平等条約を解消し晴れて諸外国と交易が対等になった。同年11月に西浦圓治・西浦道太郎・西浦清七・西浦市兵衛・西浦繁次郎。春田鉄次郎・山田銀次郎・加藤政兵衛・工藤新助らにより多治見貿易合資会社(写真1)を設立し、代表に西浦道太郎・西浦圓治、支配人に春田鉄次郎が就任した。
美濃から直接海外に販売するための支店を開設することを目的とし、支配人春田鉄次郎がアメリカへ視察することとなり関係者が集まり送別会が開かれる、「同31年(1898)9月多治見貿易会社支配人春田氏の陶磁器販路拡張のため渡米するにつき多治見町村田楼に於いて水谷郡長、横井警察署長、坂田町長、西浦圓治、西浦猪三郎、加藤久次郎、加藤助三郎の諸氏五十余名にて送別会が開かれた、同地の陶器商人として海外万里へ販路拡張に渡航する者氏をもって嚆矢となす……」。(註1)
アメリカへ
同31年の秋、春田鉄次郎はアメリカへと船上の人となる、三等船室に移民と雑居してアメリカに着き、太平洋岸から東部都市に進むに至り、はじめて真のアメリカを見た、ボストンから更にニューヨーク・フィラデルフィア・シカゴ、など繁栄を極める国を直視。翌年の春に帰国して報告、支店開設の準備を整え、同32年(1899)秋ボストンに支店を開設。やがて同38年(1905)頃は日露戦争の対米好評による好景気にて順調であった、同42年(1909)にはニューヨークに支店(写真2)を開設した、しかしその後アメリカ不況により販売不振や諸事情があり明治末に会社は閉鎖した。
新たな会社
多治見貿易会社の閉鎖後、春田鉄次郎や西浦一、西浦芳太郎ら関係者は事業を引き継ぎ新たに春田商会として発足、その後太洋商工株式会社(写真3)となりニューヨークなどに店を構えるなど、名古屋でも有力な貿易会社として発展しました。現在も名古屋市東区代官町の名古屋陶磁器センター隣に、春田氏が建設した5階建の太洋商工ビル(写真4)が残されています。

参考資料(註1) 陶器商報
春田鉄次郎小伝 西浦焼(高木典利著)

第十三回多治見商人物語

5代西浦圓治と西浦焼

明治5年(1872)に窯株・仲買株制度が廃止となって生産・販売が自由化され、多治見は美濃焼の集散地として活気にあふれました。当時の美濃焼は日用雑器がほとんどで、粗製乱造のそしりをまぬがれられませんでしたが、そんな中美濃焼の質の向上に努め、国内外の販売に尽力した陶器商に5代西浦圓治がいます。

13-1.JPG

↑5代西浦圓治(1855〜1914)
自社工場での製造
 5代圓治は幼名を繁太郎といい、安政3年(1856)に4代圓治の甥として生まれました。父親の勘三郎は岩村から養子にきた4代圓治の姉婿で、まだ幼かった4代圓治の後見人として西浦本店の経営を任され、支配人として活躍しました。
 明治時代になってから3代圓治は、市之倉の工場で細密な染付製品を製造し輸出に着手していました。明治21年(1888)、繁太郎は32歳で5代圓治を襲名し、自宅前の屋敷を絵付工場に改造して、上絵付製品の製造を始めました。しかし当時の多治見の上絵付技術はまだ低かったため名古屋などからも腕利きの職人を集めました。翌年には名古屋に進出し、東区東片端に400坪もの広さの工場を建設し、総勢60名の職人が働いていました。製品は花瓶・コーヒー碗皿などで金を施したものでした。
13-3.jpg
明治27年(1894)に多治見の尾張坂に窯を築き、西浦辰太郎を工場長に迎えて西浦焼を代表する吹絵装飾の「釉下彩」などの製品を作りました。画工も九谷・瀬戸・名古屋から招き、最盛期には120名もの職人がいたといいます。
輸出と万国博覧会への出品
輸出に足る高い技術の製品を生産できるようになって、横浜に開業した「西浦商会」では海外貿易も手掛けていきました。明治29年(1896)に「多治見貿易合資会社」を組織、同32年(1899)にはボストン支店を開き販路拡大に努めました。
また、5代圓治は数々の博覧会へ焼物を出品し、明治22年(1889)のパリ万博で銅賞を、同37年(1904)セントルイス万博で金賞を、同42年(1909)アラスカ・ユーコン太平洋博で名誉大賞を受賞しました。
後継者育成に力をそそぐ
尾張坂に窯を築いた翌年には、45名の徒弟を受け入れて技術者の養成を図りました。また明治28年(1895)に設立された「岐阜県陶磁業組合」では、組合長の加藤助三郎らとともに岐阜県立多治見工業高校の前身となる「岐阜県陶磁器講習所」を開校するなど、5代圓治は将来の美濃焼の発展を見据え、後継者の育成に力をそそぎました。
13-2.JPG
↑「西浦焼 釉下彩秋海棠文花瓶」明治時代

参考文献
多治見市教育委員会蔵参考文献「多治見市史通史編上」(多治見市1980年)
     「多治見市史通史編下」(多治見市1987年)

第十二回多治見商人物語

4代西浦圓治と多治見橋

 

多治見橋は土岐川の南北をつなぐ多治見の中心地に架けられた唯一の橋でした。また中仙道の脇街道であった下街道の一部として重要な役割を果たしていました。明治時代の初めまでは冬場になると沿岸の多治見村と長瀬村が隔年で土橋を架けていました。しかし夏の増水期には流失してしまうため、夏場は渡し舟が人や物を運び、それぞれ舟賃・橋賃の通行料を徴収していました。
明治13年(1880)の明治天皇行幸に伴い、多治見橋は官費による本格的な木橋に架け替えられました。これにより荷車・牛馬車の輸送が本格化しましたが、翌年の豪雨で流失してしまいました。一度頑丈な木橋を体験した地域住民にとって、橋のない不自由さは堪えられないものでした。そのため多治見村や長瀬村の有志者から架橋資金を募集して、明治15年(1882)に第2次架橋が実現しました。ところが開通式の1ヵ月後、またも土岐川の増水により多治見橋は流失してしまいます。1度ならず2度までの悲運に、その後はしばらく再建の計画も出ませんでした。
4代西浦円治、独力で多治見橋を再建
明治10年代後半は人の往来や物資の運搬がますます頻繁になり、美濃焼販売においても海外などの新しい市場開拓に乗り出そうとしていた時代です。仮橋の多治見橋では、普及し始めたばかりの荷馬車は通行できず、一旦荷を下して人が運び対岸で積み直していましたし、増水期には減水を待つ荷物の山が両岸にうずたかく積まれるような状況でした。
このような中、4代西浦圓治は、明治18年(1885)に独力での架橋を決意し、県の認可を得て翌年工事に着工、明治19年(1886)3月には開通式を迎えました。この多治見橋は長さ80間(約144m)、幅2間1尺5寸(約4m)という立派な橋でした。また総経費は4520円で、橋賃を徴収して10年間で償却する計画でした。これ以後多治見橋は洪水に流されることなく、明治43年(1910)の架け替えまで通行する人々を支えました。
12-1.jpg

                                                        消防組と4代西浦圓治
4代圓治は弘化3年(1846)に3代圓治の子として生まれ、初名を五郎兵衛、後に圓治と改めました。明治21年(1888)に5代圓治に代を譲って隠居すると、耕と名を改め、明治28年(1895)に50歳の若さでこの世を去りました。また4代圓治の娘婿には明治29年(1896)に設立された多治見貿易合資会社の社長として活躍した西浦猪三郎
がいます。
 50年という短い生涯の中でも、4代圓治は多治見橋架橋以外にも多治見にとって重要な役割を果たします。そのころ人口が増加し住宅が密集していた多治見では、火災が人々の生活の中で最も恐ろしいことの一つでした。都市部や城下町、宿駅には江戸時代より火消組などの組織がありましたが、多治見のような村落には消防組織はありませんでした。明治10年代に多治見の住宅密集地で相次いで火災が起こったこともあり、明治17年(1884)に4代圓治は私設の多治見消防組を組織しました。竜吐水という消火ポンプを2台備え、火の見やぐら・まとい・梯子・鳶などの設備も用意しました。この私設消防組の組織が近隣住民への刺激となり、その後の公設消防組へとつながっていきました。
参考文献 「多治見市史通史編上」(多治見市 1980年)
      「多治見市史通史編下」(多治見市 1987年)

第十一回多治見商人物語

下街道と陶磁器輸送

明治時代の下街道と陶磁器輸送
 明治33年(1900)に国鉄中央線が開通する以前の美濃焼の輸送には、今渡街道を経て木曽川を下るルートなどもありましたが、名古屋に運ばれるものは下街道を通っていきました。下街道は、現在の国道19号線の前身ともいえる、名古屋へ向かう際の幹線道路です。江戸時代から明治時代前期までは、馬の背の両側に陶磁器を振り分けて積むのが一般的でした。やがて、一度に運搬できる量を増やすために、荷車が用いられるようになります。東濃地方の早いところでは明治20年代から馬車が用いられましたが、陶磁器の集積地である多治見から名古屋を目指すルートの下街道で最大の難所だったのが、現在は岐阜県と愛知県の県境になっている内津峠です。朝、陶磁器を満載して多治見を発った馬車は、峠を前に麓で休憩しながら次に来る馬車を待ちました。次の馬車が到着するとその馬を借りて、2頭立てにして峠を登り、頂上にいたると、荷物をいったん置いて馬を再び戻し、もう1台の馬車を引き上げたそうです。麓に近い池田町屋村(現・多治見市池田町)では、駄賃をもらっては馬車を押し、手助けする人もありました。また、名古屋の入口に当たる庄内川の河畔には、馬車引きに酒食、馬には飼葉や水を与えてくれる茶屋があって、そこで一服してから大曽根の坂を上がり、夕方に名古屋の問屋に荷を降ろし、その夜は市内の馬宿(馬車とも宿泊可能な宿)に泊まって疲れを癒したといいます。
馬頭観音
 馬はかつて、農耕や運送など生産と流通の重要な担い手として大切にされ、死ねば馬頭観音像を供養塔として祀るなどしました。馬頭観音は仏教の守護神ですが、牛馬に関係する職業の従事者が、その供養や無病息災を願った民間信仰的な存在でもありました。江戸時代後期からは、石仏だけでなく文字を刻んだ石塔も造られます。馬頭観音は、愛馬の墓標として屋敷内に建てたほか、往来時に交通の難所で馬が息絶えた場合はそこに埋め、その上に馬頭観音を祀ったようです。こうした路傍の馬頭観音は境の神や道祖神への信仰とも習合し、村境や辻に祀られるようにもなりました。辻に建てられて道標を兼ねたものもありますが、それはこうした例のひとつです。多治見市内と可児市内の馬頭観音を見る限り、江戸時代には主に村を単位とする集団が施主でしたが、幕末から明治時代以降の施主名を調べると、「馬持中」「馬方連中」「馬車連中」など、馬による運送を行う人々との関連が認められるようになります。この時期に、馬頭観音信仰と輸送集団が強く結びついたようです。下街道の難所であった内津峠では、運搬途中に馬が疲労で動けなくなったり、馬方が帰りに飲酒して川に落ちたりすることもありました。明治27年(1894)に建立された内津峠の馬観音にも、「馬車」「荷車」という銘が刻まれており、こうした輸送集団が内津峠での安全を祈願したもののようです。

11-1.jpg 11-2.jpg
荷馬車
(多治見市郷土資料室提供)
内津峠の馬頭観音
(多治見市郷土資料室提供)

[主要参考文献]
多治見市 編『多治見市の石造物目録』(1975)

可児市成人大学歴史講座 編『可児市の石造物』路傍編 (1983)
可児市成人大学歴史講座 編『可児市の石造物』神社・寺院編 (1987)
多治見市 編『多治見市史』通史編 下 (1987)
財団法人 名古屋陶磁器会館『名古屋陶業の百年』 (1987)

第十回多治見商人物語

中央線多治見駅開業

 

中央線多治見駅開業
鉄道は、物資の大量輸送を可能にし、短時間に遠隔地への人の移動を可能にした近代化の象徴ともいえる技術です。明治維新後、政府はいち早く欧米から技術を導入し、明治5年(1872)に新橋―横浜間で日本初の鉄道が開通します。
中央線は、明治29年(1896)に八王子と名古屋に鉄道局出張所が設けられ、東西両方面から建設工事が始まり、明治33年(1900)に中央西線の最初の路線として、名古屋−多治見間が開通します。このとき多治見駅は、土岐川を挟んで多治見町の対岸、当時の豊岡村に設置されました。駅開業により、周辺には運送店や旅館などが建ち並ぶようになり、村は一気に活気づきました。
その後、明治35年(1902)には、土岐津(現土岐市駅)−中津(現中津川駅)間が、明治44年(1911)に八王子−名古屋間がつながり、中央線は全線開通に至ります。 
トンネル工事と西浦円治による煉瓦生産
中央線の建設にあたっては、トンネルや橋梁に数千万個の赤煉瓦が使われました。その多くは愛知県で製造されたものですが、一部は多治見町の西浦円治(5代)が自ら煉瓦工場を設立し、焼成を行いました。
西浦円治は煉瓦の調達を「他方より仰ぐは遺憾なり」として、自ら製造に乗り出すことを決意します。「西浦煉瓦工場」は、明治27年(1894)に設立され、職工数男40名女20名計60名、1基15馬力の蒸気機関が設置されたことが記録されています。同時代の西浦焼を生産した製陶所の職工数42名、駄知の籠橋休兵衛の製陶所25名と比較しても、煉瓦工場が規模の大きなものであったこと
10-1.jpg

が分かります。明治32年(1899)の多治見町議会議事録には、円治が玉野街道(愛岐道路の前身)に専用のレールを敷き、トロッコで煉瓦を工事現場まで運搬したことも記録されています。しかし、西浦による煉瓦生産の詳細は記録がなく、煉瓦を焼成した窯も妻木坂(現多治見市坂上町から本町付近)にあったと伝えられますが、今ではその場所も定かではありません。
美濃焼の鉄道輸送
 重量のある陶磁器は、鉄道開通により飛躍的に輸送量が増加した物資です。多治見駅開業により、東濃地方各地で製造された美濃焼が、多治見駅へと集められ、全国へと発送されるようになります。国内の各窯業地においても、鉄道による陶磁器輸送は行われましたが、多治見商人はとくに鉄道をうまく利用しました。大正元年(1912)の主要鉄道駅陶磁器発送量をみると、多治見駅の発送量は約2万4千トンで、名古屋駅を凌いで全国第1位、それに瑞浪、土岐津を加えると、東濃地方の鉄道駅からの発送量が他を圧倒していたことが分かります。
 また、多治見商人は自ら鉄道に乗って、全国へ美濃焼の販売に出かけていきました。陶磁器の見本を詰めた風呂敷包みやカバンを背に多治見駅を出発していく番頭さんの姿は、昭和40年代頃まではよく見られる光景でした。鉄道の路線に沿って1駅1駅下車し、各地の陶磁器問屋をくまなく巡り歩いた先人たちの努力が、美濃焼を日本の家庭へと行き渡らせる原動力となったといえます。
大正元年(1912)主要鉄道駅陶磁器発送量
10-2.jpg
〈主要参考文献〉
多治見市教育委員会2014「旧国鉄中央線トンネル群(愛岐トンネル群)の文化財的価値についての調査報告」『多治見市文化財保護センター研究紀要』第12号

第九回多治見商人物語

今渡街道を使った美濃焼の輸送

明治前期までの主な街道
明治33年(1900)に中央線の名古屋―多治見間が開通すると、列車を使った美濃焼の輸送が盛んになりました。それ以前は馬や荷馬車、荷車を使った陸上輸送または川を船で下り、荷物を廻船に積みかえて会場輸送というルートを使っていました。
江戸時代から明治時代前半までの美濃焼の輸送ルートとして主に次の3つがあげられます。
@名古屋へ内津を経て下街道を馬で輸送
A信州・甲州方面へ高山村継立で馬で輸送
B江戸・大坂へ野市場湊(現可児市今渡)から
木曽川を積み下げ、桑名から海上輸送
9-1.jpg
(「多治見市史上巻より)このうちBの今渡から木曽川を下るルートは、@の下街道で名古屋へ出るルートより距離が短く運賃も安かったため、最も多く使われました。
美濃焼の通った道〜今渡街道〜
今渡までの道は「今渡街道」「多治見街道」「太田道」などと呼ばれ、多治見橋を起点として白山町・宝町・小泉町・根本町を通り国道248号線を北上する約20kmの道のりです。現在では、当時の面影はあまり残っていませんが、道々に残る石造物が往時の賑わいを伝えています。
 江戸時代には禁止されていた荷車や荷馬車が、明治時代に入ってから使用されるようになり、今渡街道の交通量も増えていきました。それにともない、屈曲で細かった街道の拡幅や改修が必要となり、多治見村の有志の呼び掛けで明治12年(1879)に民費での工事が行われました。翌13年(1880)に工事は終了し、道幅は狭い所で約1.8m、広い所で約3.6m、平均約2.7mになりました。
9-2.jpg
↑昭和30年代ごろまで馬車で陶磁器を輸送する風景が見られました
江戸時代からの伝馬制度が廃止されてからは、輸送を宿駅に設立された陸運会社が担うようになりました。
旧豊岡村(現豊岡町近辺)にあった「ヤマ定」という陶器商が、飛騨高山の窯元で商社でもあった「芳国社」へ向けて4俵の焼物を出荷したときの送り状が残っています。この送り状には荷物を受け取った日にちと署名があり、飛騨高山まで焼物を運んだ継立の順序がわかります。この時、輸送を取り仕切ったのが加茂郡中川辺(現川辺町)の陸運会社でした。
9-3.jpg
→中川辺出発金山(現下呂市)運送会社酒井会社にて
→6/5高山の芳国社着

陸運会社へは運賃の外に手数料を支払いました。今渡までは今渡街道を陸路で、木曽川から飛騨川へ舟で出て高山まで、全10日程かかって運んだことがわかります。
 参考文献 「多治見市史通史編上」(多治見市 1980年)
      「多治見市史通史編下」(多治見市 1987年)

第八回多治見商人物語

美濃焼の海外輸出と名古屋港

美濃焼の本格的な輸出の開始は、明治10年代後半から20年代のことです。明治時代、名古屋の海の玄関は熱田港で、前身は東海道の桑名までの「七里の渡し」で知られる宮の宿でした。名古屋からは艀に荷を載せて堀川を下り、熱田港経由で四日市へ運んで船積みされていました。四日市は横浜港や神戸港への中継港でしたが、水深が十分で大型貿易船の停泊も可能でした。一方の熱田港は、遠浅の湾内に大小の河川が土砂を堆積させ、大型船舶の進入を阻んでいたのです。

 明治25年(1892)に国鉄中央線の敷設が決定し、汽車による美濃焼の大量輸送が実現しようとしていました。しかし陸路で横浜や神戸の貿易港へ運ぶためには、東は静岡や三島などの操車場や難所の箱根があり、西は長浜から船に積み替え琵琶湖を横断して大津の操車場を経ていました。貨車の連結や積み替えにミスが相次ぎ、破損するリスクも大きく、運送店では店員が商品に同行する監視も行っていました。中央線の工事が始まろうという明治27年(1894)、陸・海運を連係させるべく熱田港を浚渫して、新たな港を築こうという声が高まります。名古屋からの輸出品のうちでも陶磁器は高い比重を占め、東海道線開通後は陶磁器を扱う貿易商が名古屋支店を構えたこともあって、産地から最も近い海から船出させたいという思いが一層、強まっていました。それが、名古屋港の築港へとつながります。建設中の明治39年(1906)には海図もなく座礁の危険がある中、巡航博覧会船の「ろせった丸」(3,876t)を熱田港に誘致し、大型船舶の入港できる港の必要性を強く印象づけました[写真1]。翌年、熱田村は名古屋市に編入されて名称も名古屋港となり、国際貿易港が開港します。陶磁器は、明治41年(1908)に名古屋港の総輸出額1,705,910円のうち、60%を占める主力商品でした。
 他の産地が美術品的な陶磁器だったのに対し、美濃焼はコーヒー碗など日用の洋食器の輸出を主流としたので、よく売れたといいます。美濃では完成品の出荷割合が比較的高かったようですが、名古屋で絵付けする場合は瀬戸製素地との区別がされていませんでした。ただ、明治43年(1910)には多治見の輸出陶磁器産業は、「隆盛に趣き、目下瀬戸を凌ぐの概あり」と記されるほど勢いを強めており、好調な輸出で増産を続ける多治見へ移る瀬戸の職工も多く現れたそうです。実際、美濃焼の生産は従来、国内向けが70%・輸出向けが30%でしたが、明治39年(1906)には国内向け35%、輸出向け65%と逆転しています。したがって明治時代の美濃焼の海外輸出が、日本有数の港[写真2]の開港を後押しした、といっても過言ではないでしょう。
 名古屋港は開港後も引き続き、さらに大きな6,000t級の船舶が入港できるよう、第2期工事を始めます。また、明治33年(1900)開通の中央線に加え、明治44年(1911)には名古屋駅から港にいたる臨港線も敷設、美濃焼は世界に通じる海をダイレクトに目指すことができるようになったのです。

8-1.jpg 8-2.jpg
ろせった丸
(名古屋港管理組合提供)
現在の名古屋港
(名古屋港管理組合提供)

[主要参考文献]
『新修名古屋市史』資料編近代1 (2006)
『名古屋港史』港勢編 (1990)
『日本輸出陶磁器史』(1967)

第七回多治見商人物語

陶器将軍加藤助三郎U

明治33年11月1日、岐阜県土岐郡長の水谷弓夫より助三郎に「陶器将軍歌贈加藤助三郎氏」(写真1)と題し揮毫し贈られた。この時期水谷土岐郡長と助三郎は親密な関係にありました。当時、美濃焼の良品を作るためには、人材育成が重要であることを認識して工業教育(陶磁器講習所開校)を推進したのが、組合長であった多治見商人、西浦清七・加藤助三郎や水谷土岐郡長です。
工業教育
日本で初めての工業学校は、明治13年にワグネル(ドイツ人)の建議により東京職工学校(現東京工業大学)が開校しました。
陶磁器科の卒業生は、ワグネルから科学を学び、のちに日本各地に開校した工業学校の校長として赴任し、徒弟教育を行っています。卒業生は、大日本窯業協会を設立し世界の窯業情報を掲載した雑誌などを発行しました、助三郎はその事業を後援をするなど親密な関係にあり、工業の重要性を認識していました。助三郎は、美濃にも講習所が必要と考え開校に向け、郡・県に嘆願したのです。その過程を記します。
学校設立に向けて
明治30年12月、「美濃焼陶磁器改良に関する意見陳述のため岐阜県庁に出頭する」
同31年1月「陶磁器改良につき湯本岐阜県知事と東京工業学校窯業部を実視」この時点で講習所開校に向け参考となる学校を視察している、講習所開校後は、東京工業学校の卒業生が校長・教師として歴任している。
同31年1月「岐阜県陶磁器講習所設立の意見書を水谷土岐郡長に送る」
同31年2月「岐阜県陶磁器講習所設立の意見書を岐阜県庁柿本課長に送る」
同31年3月「岐阜県陶磁器講習所設立委員を委嘱される」
同31年7月岐阜県陶磁業組合臨時会を開き組合付属として陶磁器講習所設立の認諾を得る」
同32年4月「第一期生徒終業證書授与式へ出席し美濃焼改良の要点を演説」
同32年8月「岐阜県陶磁器講習所を土岐郡立陶器学校に進歩せしむるに付き水谷土岐郡長と共に岐阜県庁に出張す」
同34年4月「土岐郡立陶器学校第一期卒業証書授与式あり」
同35年7月「柿元土岐郡長の嘱託により土岐郡立陶器学校拡張方針計画のため出頭し熊沢陶器学校長其の他と協議」
工業学校開校に向けて、多治見商人の建議の流れがあり学校が設立されたのです、同31年に組合付属から始まり、その後郡立となり、大正2年に多治見市に移転し現在の岐阜県立多治見工業高等学校(写真2)として110年以上の歴史を重ね今日に至っています。
当時土岐郡長であった水谷弓夫は教育者・漢学者であり加藤助三郎表功碑・陶祖碑・記念碑などに書を揮毫している。

第六回多治見商人物語

陶器商人物語 加藤助三郎

「多治見商人」加藤助三郎について、明治22年10月10日発行の「東濃旬報」(写真1)では陶器将軍として紹介されています。内容は「東京陶器会、山栄会を設け毎月6日に定期の陶磁器入札会を開催するもので、日本橋通り3丁目壽亭にて内外何人を問わず購入者の臨席を仰ぐ」記事です。
何故36歳で「陶器将軍」とまで云われていたのか。助三郎の活躍を履歴書(写真2)に基づき記します。
多治見市本町に店を構え陶磁器販売を商いとしていた助三郎は、市之倉町に生まれ、明治3年2月(14歳)から同4年2月(15歳)まで商業研究のため東京へ行き学び、同5年5月(16歳)東京深川区安宅町に陶磁器販売店「美濃屋」を開く、美濃産地よりの独立出張店の嚆矢と言えるものです。その後、同10年に「濃栄組」さらに「濃栄社」と称する株式会社組織となり同22年に「満留寿商会」として陶磁器卸売問屋を開設しました。
海外貿易
幕末から明治初期の貿易は、横浜・神戸に店を構えた欧米の商館に商品を売り込み買い上げてもらうもので、当時は不平等条約の状況下で商いは難しい状況でした。
やがて同22年に助三郎は、農商務省に願いシンガポール・香港・広東・天津等の日本領事館へ陶磁器250点2219個を送り販売を試みる。このように初めは領事館を介しての商いであったようです。助三郎は、欧米にも販売を行うが同28年に日本は念願であった不平等条約が改正され諸外国と対等と成れたことにより、同29年に前田正名による実業団体(五二会)などが組織され外国との貿易上の交渉を円滑に進める動きが出てきました。助三郎は東京五二会の創立委員となり陶磁器の輸出を推進しました。同32年には南アフリカはケープタウンへ直輸出を開始。同32年政府派遣清国陶磁業視察のため五ケ月間渡航し商取引・標本購入(写真3)などを調査したことにより、のち日清貿易が盛んになりました。同35年にはインド貿易品を製造して販路を広げています。
鉄道輸送
同24年鉄道運送株式会社の創立を発起し東京府庁の認可を得て、鉄道局に運賃の特別割引を請願。従来は船積みであったものが鉄道となり、陶器貨物の便利を図る。その後名古屋駅停車場前に支店を設置、さらに大阪駅停車場前に支店を設立し名古屋大阪間の陶器貨物輸送上の利便を図る。同28年には、名古屋陶器運輸合資会社の発起人となり取締役となる。同33年多治見駅構内に数萬の陶磁器が雨ざらしのため、構内に倉庫建設を願い逓信省に出頭、総務長官に許可を得て百五十坪の倉庫を建築して洪益を図る。同34年多治見駅に陶磁器貨物堆積するため、鉄道局へ貨車増発を請願、運輸課長に面談し増発を得て希望を達せり。美濃焼が全国に運ばれて行く要因になりました
また助三郎は、全国の陶産地を巡り殖産振興の方策について講演をしている。まさに将軍にふさわしく陶業界の発展を願う行動でした。

第五回多治見商人物語

明治〜昭和20年

高田徳利の販売
 酒屋の店名や屋号などが筆で書かれた「高田徳利」は、明治時代から昭和20年頃まで高田地区と小名田地区で作られました。「高田徳利」は、酒屋が客に貸し出し、客は空になった徳利を店に戻し、またそこへ酒を入れてもらって購入するという使われ方をしました。別名「貧乏徳利」とも呼ばれ、明治時代以降の貧乏徳利は、高田徳利と丹波立杭焼(兵庫県)、有田焼(佐賀県)が三大産地として国内流通範囲を三分しており、高田徳利は琵琶湖の湖北地方を境に東日本一帯に流通しました。
高田地区は「白粉土」という良質の陶土が産出したことで、江戸時代後期(19世紀代)から徳利の一大産地になりましたが、隣接する小名田は高田のような陶土には恵まれず、生産量は少ないものでした。そのような背景もあり、高田徳利は、主に高田の窯屋が生産し、小名田の商人が販売をするという構図ができあがりました。
江戸時代の高田小名田の徳利は、灰釉を全面に掛けた文字のないもので、江戸へと出荷された後、釘状の工具で酒屋の屋号が彫り付けられていました。本焼成前に鉄絵具で文字書きする、いわゆる「高田徳利」が作られるようになるのは明治時代以降のことです。明治時代になると、交通網が発達し、しだいに鉄道網も整備されたことから、商人が多治見から全国へ直接出かけていくことが容易になっていきます。高田徳利の販売商人も、鉄道を使って東日本の酒屋を一軒一軒訪ね歩くことにより、それぞれの酒屋の注文に応じ、屋号や酒の銘柄を下絵付で入れるという、きめ細やかな対応が取れるようになります。

takada01.jpg
近代の美濃焼は、市之倉の盃、笠原の飯茶碗、滝呂の洋食器・・・といったように、各窯場で生産された様々な製品が多治見の陶器商の元へと集められ、全国の陶磁器問屋へと販売されるという仕組みがありました。

takada2.jpgところが、高田徳利だけは、販売先が酒屋に限定されるという商品の特殊性から、多治見の陶器商へは販売されず、ほとんどが小名田の商人によって販売されたようです。
小名田の商人は、見本の徳利を詰めたカバン(「フーテンの寅さん」のような革のトランクが多かったそうです)を持ち、多治見駅から汽車に乗って、東日本の酒屋をまわり、徳利に書く文字の注文を取ってきました。小名田の「ヤマり堀江商店」には高田徳利販売に関する帳面が残されていましたが、そこからは福島県から茨城県栃木県、東京23区や横浜などを販売先とし、旅の往き帰りに中央線沿線の長野県や山梨県、東海道線沿線の静岡県や愛知県などで下車して、商売を行っていた様子がわかります。
高田徳利は、大正12(1923)年の関東大震災直後、江戸時代以来の好況期が訪れますが、わずか数年でガラス瓶に押され、需要が激減します。徳利の需要激減に直面し、小名田の商人は、それまで取引のあった酒屋の販売ルートを活用し、小皿や盃などに印を入れた「印物」を販売する「印物屋」へと転換していきました。酒屋か

企画展「高田徳利〜高田の窯屋と小名田の商人〜」
平成26年6月27日(金)まで多治見市文化財保護センター(旭ヶ丘10−6−26)で開催中です。
土日祝日休み、入場無料、(0572)25-8633。
※移動展示を美濃焼ミュージアムで平成26年7月2日(水)〜8月28日(木)に開催します(展示規模は縮小されます)。月曜休み、入館料300円。

ら次第に販路を広げ、上記の堀江商店の帳面にも、昭和初期〜10年代にかけて、お茶屋、醸造店、雑貨屋等、さまざまな店で印物の注文を取り、販路を広げていく様子が読み取れます。

第四回多治見商人物語

多治見商人物語(幕末)

加藤五郎兵衛一代日記
 「加藤五郎兵衛一代日記」は三代円治の日記で、文化3年(1806)の出生から嘉永5年(1852)までの40数年間の主な出来事が、年ごとに書き記されています。家族の出生・死亡・婚姻など私的な出来事の他に、大災害や飢饉、世間の流行なども書かれており、当時の多治見の様相を知ることのできる唯一の歴史資料です。特に西浦店の商いに関する記録が多く見られ、三代円治が東奔西走する様子がわかります。

4-1.jpg

↑「加藤五郎兵衛一代日記」弘化3年の部分(西浦家所蔵)
転機となった弘化3年の難事
1、大坂問屋・大和屋利八郎荷代金滞納
↑当時の海船・菱垣廻船(「ものと人間の文化史」より) 五郎兵衛日記の中でもっとも頁をさいて記録されているのが、大坂に西浦店を出店した弘化3年(1846)の出来事です。この年の日記は、美濃焼物の支払い催促のため1月2日に使いの者を大坂へ遣わしたことから始まっています。大坂の問屋・大和屋利八郎が円治や多治見の他の商人への1530両もの支払いをせずに、妻子を連れて行方知れずになったため、円治もあわてて大坂へ行き、使いの者と共に讃岐(現香川県)の金比羅様まで利八郎捜索の旅へ出かけました。結局利八郎は見つからず、多治見へ戻ったのは約2カ月後の3月1日でした。
大坂逗留中、円治は利八郎が残した美濃焼物を市で販売しながら奉行所へ訴訟し、そんな中でも大坂店の準備を整え、この年西浦大坂店を開店しました。
2、江戸大火
大坂滞在中の1月から3月にかけて、3度江戸で大火事があり、得意先の問屋20軒余りが被害にあいました。この火事で無事だった得意先は2軒のみで、江戸での販売が中心であった円治はじめ美濃の商人・窯元も損害が大きかったことが想像できます。
円治が特に懇意にしていた得意先の近江屋喜兵衛の店も、この大火事で全焼し経営不振となっていました。このため円治が店を譲り受け、翌弘化4年に西浦江戸店を開店しました。
3、多かった海難事故
江戸・大坂などの大都市で販売される美濃焼物の多くは、今渡街道を通って野市場湊(今渡)まで馬で運ばれ、川舟をつかい木曽川で桑名まで下りました。その後桑名で海船に乗せ替えられ海上輸送されました。
海上輸送には海難事故がつきものですが、特に弘化3年は円治の出した荷物が10回以上もの事故にあい、大坂への荷物は毎回事故にあったことが日記に記されています。当時の海上輸送では、難破しそうな場合、重量の重い鉄や陶磁器を海中に捨て、船を軽くし難破をのがれる「打ち荷」が行われたため、焼物は特に被害にあうことが多かったようです。円治は事故の知らせを受ける度に現場へ使いの者を遣わしました。損害負担は通常、荷主の円治と注文主で半分ずつ請け負う決まりとなっていたため、円治の損害は非常に大きなものでした。 

4-2.jpg
難事を吉事に
 弘化3年は円治にとって難事の連続でしたが、この難事が江戸・大坂へ出店の足がかりとなり、西浦店の発展へとつながっていきました。
 また、この年の9月と10月に使いの者が、金や銀の扇などを道々で拾い、円治へ届けました。日記には「これは大吉と笑い笑い帰国する」(これは縁起の良いこと大笑いをした)と記されています。日記の中にも難事に屈しない三代円治のおおらかな人柄を見ることができます。
 参考文献
 「多治見市史通史編上」(多治見市 1980年)

第三回多治見商人物語

多治見商人物語(幕末)

西浦屋の中央市場進出
 西浦家の祖、加藤助兵衛は尾張国岩作村(現愛知県長久手市)の出身で、多治見村に移住し鍛冶を生業としていました。加藤家から分かれた西浦家初代治助は多治見村の庄屋を務め、新羅神社修復の棟札にもその名前をみることができます。二代から五代まで円治を襲名し代々村役を歴任しました。
文政3年(1820)、二代円治の代に近隣窯元への割木販売をはじめ、その後美濃焼の仲買をするようになったことで西浦家と焼物との関係がはじまりました。その当時の美濃焼販売は尾張藩蔵元の統制下にあり、美濃の商工にとって不利なものでした。二代円治は、販売自由化を求めて江戸に水揚会所(江戸へ直送した焼物を保管する事務所兼倉庫)を設立する運動を2年もの間おこないましたが、名古屋・江戸問屋・尾張藩の反対のため実現しませんでした。
しかしこれに屈せず天保6年(1835)多治見村に「美濃焼物取締所」を設立し、美濃焼の販売窓口を一本化し、販売ルートを組織化しました。これにより製品価格を安定させ、円滑に荷代金回収ができるようになりました。取締役には二代円治が就任しましたが、この時二代の下で水揚会所設立運動や美濃焼物取締所開設に東奔西走したのが当時まだ20代であった後の三代円治でした。
40-2-29.jpg
三代西浦円治(1806〜1884)(多治見市図書館写真提供)
三代円治は、二代円治の実子を差し置いて家を継がせるほどの秀才で、面識のない大坂商人に「美濃・尾張のやり人と聞きおよぶ」と言わしめたほどの人物でした。
三代円治は天保元年(1830)25歳の時に初めて江戸へ美濃焼を販売し、その後江戸・大坂に出店しました。時代は天保の改革によって株仲間が解散し、都市特権商人の販売独占が揺らいだ時期で、まさに地方商人にとって

hakutizu0011.jpg

中央市場進出の好機でした。
弘化3年(1846)に大坂西横堀町(現大阪市)に大坂店を、翌年には江戸店を堀留1丁目(現日本橋本町)に開店しました。店は間口2間半(約4.5m)、奥行五間半(約10m)で、江戸に数ある小規模店の一つでした。店は支配人吉兵衛と付添い人・奉公人あわせて7名で切り盛りしていました。主な仕入商品は美濃焼、ついで瀬戸物、京焼、信楽焼でしたが、当時「本場物」と呼ばれた有田焼を中心とする九州磁器も安政6年(1859)より仕入れています。
江戸店の売り先は江戸のほか相模(神奈川)、下総(千葉)、常陸(茨城)、上野(群馬)、下野(栃木)、陸奥(福島・宮城・岩手・青森)で、特に陸奥は維新期に売り上げが伸び、売り上げの約25%を占める程になっていきました。
西浦店の多角的経営
 西浦店では焼物や焼物原料の他にも、様々な商品を扱っていました。岐阜加納の産物であった傘を仕入れて江戸へ販売したり、米穀・溜り・味噌・塩・反物など日常必需品を近在の窯屋に直売していました。この他にも、地域の養蚕業の取りまとめ役をするなど多角的な経営に着手して、新興の特権商人として商品流通の基盤を強化していきました。
 参考文献
 「多治見市史通史編上」(多治見市 1980年)
 「藩陶器専売制と中央市場」(山形万里子 2008年)

第二回多治見商人物語

多治見商人物語(明治)

現在の岐阜県立多治見工業高等学校は、明治31年(1898)に窯業専門校として土岐市土岐津町に創立しました。初め岐阜県陶磁器講習所と言い、改称を繰り返し、大正2年(1913)には多治見へ移転して現在に至ります。そして同校には、明治時代から戦前にかけて収集した多数の陶磁器が存在しています。それらは、かつての教師や生徒をはじめ、おそらく美濃焼業界に携わる人たちも作品製作の際に参考としていたものであり、その結果として作られたものです。ただし、時代の流れとともにすっかりと忘れ去られ、関係者からも顧みられることはなくなっていました。
 この度、公益財団法人ポーラ美術振興財団 平成22年度調査研究助成によって岐阜県現代陶芸美術館などが実施した調査を経て、1,500件を超える陶磁器作品を確認することができました。それらを大別すると、国内および海外で製作された陶磁器の参考品、そして同校で製作された陶磁器となっています。これは、他産地にある工業高校等の所蔵品と比較しても群を抜いています。
 では、こうした参考品はどのような経緯で学校の所蔵となったのでしょうか?もちろん、学校で購入したものもありますが、実は、陶器商であり同校の設立に尽力した加藤助三郎の相当数にのぼる寄贈があったのです。前号は父である加藤助四郎が紹介されましたが、助三郎も商売を継承して陶器将軍と称えられるまでとなり、美濃はもちろん全国の陶磁器産業の発展に貢献したことで知られています。そのような人物が、学校への陶磁器の寄贈という細やかな支援もおこなっていたというのは、たいへんに興味深いことではないでしょうか。
 岐阜県現代陶芸美術館では12月7日より2月23日まで、西浦焼や加藤友太郎、日本陶器、名古屋製陶所、セーヴル、ロイヤル・コペンハーゲン、岐阜県陶磁器講習所時代の同校製作品など、約200点の今回紹介した所蔵作品の展覧会「やきものタイムカプセル−多治見工業高等学校秘蔵の陶磁器−」をおこないます。長い年月を経て、再び日の目を見た陶磁器から、当時の学校や美濃焼業界が何を目指し、実際のどのような製品を作ったのかご覧下さい。

2-1.jpg 2-2-.jpg
▲ロイヤル・コペンハーゲン
《釉下彩婦人とコリー犬置物》
20世紀前期
▲加藤友太郎
《釉下彩松にカラス図花瓶》
20世紀前期

第一回多治見商人物語

多治見商人物語(幕末)

はじめに
多治見市の発展に貢献し美濃焼を日本一の産地へと育てた多治見商人(陶器商)が、幕末から明治・大正・昭和の激動の時代に美濃焼を全国に販売した活動を、「商いの文化」として捉え、「組合だより」に2年間掲載することとなりました。
5名の執筆者によって、時代を追いながら連載しますが、期間中新しい資料が発見されることもあり得るので、その際は時代の順序が前後することをご了承下さい。
自由販売を求めて
「陶磁器を自らの意志により販売する」
平成の世なら一般的な考えです、ところが信じられないかもしれませんが、陶磁器を自由に販売することが、出来なかった時代があったのです。
江戸時代の美濃(五ヶ村)で、作られた陶磁器は、尾州藩の支配により、尾張蔵元より販売することとなっていました。そのため美濃の人は、自由に販売することは許されていませんでした。
そのきまりを破り販売したのなら、荷物は没収となり罰を受けることになっていました。しかし、幕末になると諸外国の船が来日したことにより異文化の存在に気づき始め、やがて国内の鎖国による規制社会に矛盾を感じる人達が現れるようになってきました。
そのような状況下、多治見町の西浦円治、加藤助四郎の二名は、それぞれ市場を求め行動を起こしました。
助四郎と円治の販売開拓について記した文献がありますので紹介します。
「この地方は天領にして、製品は尾州藩産物と定まり、箱根以東と江州以西の販路は、
名古屋蔵元十五名の陶商に特許され、もし
此の禁を犯すものは、荷物を没収せられ罰せられるにより、陶家みな蔵元に出荷し、名古屋相場にて勘定をうける。」
「新製品(磁器)盛んなるにつき、多治見村西浦(地名)の加藤五郎兵衛(後の西浦円冶)は、自ら之を売り出し、名古屋蔵元より告訴される、西濃の笠松陣屋にて数回訴訟がある、そのため後に、交渉して円治は名古屋蔵元の一員となり・・・」
このように円治は、名古屋蔵元の資格を取ることにより美濃焼物取締役となり、美濃で生産される新製品の大半を取り扱うことになりました。そして直接江戸などへ荷物を送り、商いを開始しました。
また、助四郎も、自由販売にむけて動き出したのです。
「この業の自由を命として、東西の両都に往復十数回、二十四歳の時同志と、京都村雲御所その御用を受ける、二年後同志と江戸御薬園内陶器所の御用を受ける、この時御薬園役所より「丸ス」の焼印を下付せらる」
「慶應元年に至り、御薬園世話係の取立てにより、江戸幕府本丸御用となる」
「御用品の資格は、運送にても勢力著しく、尾州藩御用品を見下すほどなりし」
江戸時代の中期ならばこのような行動をすれば重罪であったでしょうが、幕末に西浦円冶や加藤助四郎のように新しい考えが生まれてきたのは、政治の動きでも明らかのように、鎖国による規制社会への反動のように思えます。
やがて、明治維新となると社会の仕組みが一変したことにより規制が無くなり、多治見商人が続々と誕生し、日本全国へ美濃焼を販売したのです。その当時の美濃焼は、国内向けの生活の器を主力品として製造し
ていたため、売れ行きも良く、またたく間に全国有数の陶磁器生産地となったのです。
多治見市内には、当時の繁栄の面影を残す建物などが今も見られます。
参考文献 大日本窯業協会雑誌
・加藤助四郎
文政10年に、市之倉村の陶家に生まれ、
若くして陶磁器の販売に携わり御用品を納める役を受ける。明治維新後は多治見町本町に店を構える。助四郎は神仏への信仰心が厚く寺社などに献納を多くしている。また子息の助三郎は、明治時代に日本の陶業界に尽くしたことで知られている。

幕府本丸御用品雛形
助四郎が、江戸幕府から拝領したもので、松竹梅に鶴亀の縁起の良い模様と葵の紋が描かれ、当時の美濃焼の技術の高さが伺い知ることが出来る。
平野公園、金刀比羅神社 
助四郎は、多治見市内の新羅神社・金刀比羅神社・永明寺(市之倉町)・八幡神社(市之倉町)などに献納している。