第十五回多治見商人物語

美濃焼技術の変遷@

 古い陶磁器の製作年代を正確に知ることは難しい。考古学的な手法や、文献などの記述によって探ることはできても、1年単位で示すことは、ほぼ不可能である。ただし稀に、作られた年がズバリ製品に記されているものが存在する。正確な年が解れば、そこに使われている技法やデザインの使用時期もつぶさに確認できる。さらには、似たような陶磁器のおおよその製作年なども芋づる式に推定できるなど、非常に貴重な情報源となりうるのである。
このような可能性を秘めた陶磁器に関して、89点もの明治時代に作られた美濃焼が、第2回の多治見商人物語で紹介した多治見工業高等学校の資料の中に存在している。これらには、製作年を記したラベルがそれぞれに貼られており、もともと、明治38年(1905)に当時の宮内省の役人が加藤助三郎のもとへ来店した際に、美濃焼の概要を説明するために用いたもののようである。そののち、多治見工業高等学校へ寄贈されて現在にいたっている。
製作年が一定期間内で明確となっている陶磁器群の存在は、国内の他産地を見渡しても例がなく、極めて貴重といえる。そこで、今号から数度にわたり、これらの資料の中から主要なものを選び出し、従来から知られている文献資料等と照合しつつ、明治期における美濃焼の技術・技法について時代を追って紹介していくこととする。
1「染付雲気文奈良茶碗」は、明治元年(1868)のラベルが添付されている(以下、ラベルに記された年号のみ記載)。美濃で磁器が焼成できるようになったのは、江戸時代の文化・文政年間(1804-29)頃であり、その流れを汲むように、いまだ黒味を帯びた山呉須による手描きの絵付けが施されている。
2「染付蝙蝠文煎茶碗」(明治8年)は、引き続き手描きによるものであるが、新しく酸化コバルトが使用されている。この酸化コバルトについては、肥前有田の松村九助が明治7年(1874)に長崎で大量に買い集めて、名古屋を拠点に多治見などの周辺の産地にも販売していたことが知られている。鮮やかに発色する酸化コバルトが汎用されるようになった初期のものといえる。
3「青磁花籠文小皿」(明治10年)は、伝統的な青磁ではなく、安定した黄緑を発色するクロム青磁と呼ばれるものが施されている。これまで、美濃におけるクロム青磁の導入時期は特に触れられてこなかったが、明治10年には使用されていたことが確かめられた。
4「白磁カップ」(明治15年)は、薄手のカップであり、明治17年(1884)に土岐市妻木の水野勘兵衛が伏せ焼きによる薄手の白磁カップを完成したことが知られていて、相互の関連も考えられる。その後の妻木は、カップの生産で名を馳せていった。
(次号に続く)