第十三回多治見商人物語

5代西浦圓治と西浦焼

明治5年(1872)に窯株・仲買株制度が廃止となって生産・販売が自由化され、多治見は美濃焼の集散地として活気にあふれました。当時の美濃焼は日用雑器がほとんどで、粗製乱造のそしりをまぬがれられませんでしたが、そんな中美濃焼の質の向上に努め、国内外の販売に尽力した陶器商に5代西浦圓治がいます。

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↑5代西浦圓治(1855〜1914)
自社工場での製造
 5代圓治は幼名を繁太郎といい、安政3年(1856)に4代圓治の甥として生まれました。父親の勘三郎は岩村から養子にきた4代圓治の姉婿で、まだ幼かった4代圓治の後見人として西浦本店の経営を任され、支配人として活躍しました。
 明治時代になってから3代圓治は、市之倉の工場で細密な染付製品を製造し輸出に着手していました。明治21年(1888)、繁太郎は32歳で5代圓治を襲名し、自宅前の屋敷を絵付工場に改造して、上絵付製品の製造を始めました。しかし当時の多治見の上絵付技術はまだ低かったため名古屋などからも腕利きの職人を集めました。翌年には名古屋に進出し、東区東片端に400坪もの広さの工場を建設し、総勢60名の職人が働いていました。製品は花瓶・コーヒー碗皿などで金を施したものでした。
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明治27年(1894)に多治見の尾張坂に窯を築き、西浦辰太郎を工場長に迎えて西浦焼を代表する吹絵装飾の「釉下彩」などの製品を作りました。画工も九谷・瀬戸・名古屋から招き、最盛期には120名もの職人がいたといいます。
輸出と万国博覧会への出品
輸出に足る高い技術の製品を生産できるようになって、横浜に開業した「西浦商会」では海外貿易も手掛けていきました。明治29年(1896)に「多治見貿易合資会社」を組織、同32年(1899)にはボストン支店を開き販路拡大に努めました。
また、5代圓治は数々の博覧会へ焼物を出品し、明治22年(1889)のパリ万博で銅賞を、同37年(1904)セントルイス万博で金賞を、同42年(1909)アラスカ・ユーコン太平洋博で名誉大賞を受賞しました。
後継者育成に力をそそぐ
尾張坂に窯を築いた翌年には、45名の徒弟を受け入れて技術者の養成を図りました。また明治28年(1895)に設立された「岐阜県陶磁業組合」では、組合長の加藤助三郎らとともに岐阜県立多治見工業高校の前身となる「岐阜県陶磁器講習所」を開校するなど、5代圓治は将来の美濃焼の発展を見据え、後継者の育成に力をそそぎました。
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↑「西浦焼 釉下彩秋海棠文花瓶」明治時代

参考文献
多治見市教育委員会蔵参考文献「多治見市史通史編上」(多治見市1980年)
     「多治見市史通史編下」(多治見市1987年)