第十二回多治見商人物語

4代西浦圓治と多治見橋

 

多治見橋は土岐川の南北をつなぐ多治見の中心地に架けられた唯一の橋でした。また中仙道の脇街道であった下街道の一部として重要な役割を果たしていました。明治時代の初めまでは冬場になると沿岸の多治見村と長瀬村が隔年で土橋を架けていました。しかし夏の増水期には流失してしまうため、夏場は渡し舟が人や物を運び、それぞれ舟賃・橋賃の通行料を徴収していました。
明治13年(1880)の明治天皇行幸に伴い、多治見橋は官費による本格的な木橋に架け替えられました。これにより荷車・牛馬車の輸送が本格化しましたが、翌年の豪雨で流失してしまいました。一度頑丈な木橋を体験した地域住民にとって、橋のない不自由さは堪えられないものでした。そのため多治見村や長瀬村の有志者から架橋資金を募集して、明治15年(1882)に第2次架橋が実現しました。ところが開通式の1ヵ月後、またも土岐川の増水により多治見橋は流失してしまいます。1度ならず2度までの悲運に、その後はしばらく再建の計画も出ませんでした。
4代西浦円治、独力で多治見橋を再建
明治10年代後半は人の往来や物資の運搬がますます頻繁になり、美濃焼販売においても海外などの新しい市場開拓に乗り出そうとしていた時代です。仮橋の多治見橋では、普及し始めたばかりの荷馬車は通行できず、一旦荷を下して人が運び対岸で積み直していましたし、増水期には減水を待つ荷物の山が両岸にうずたかく積まれるような状況でした。
このような中、4代西浦圓治は、明治18年(1885)に独力での架橋を決意し、県の認可を得て翌年工事に着工、明治19年(1886)3月には開通式を迎えました。この多治見橋は長さ80間(約144m)、幅2間1尺5寸(約4m)という立派な橋でした。また総経費は4520円で、橋賃を徴収して10年間で償却する計画でした。これ以後多治見橋は洪水に流されることなく、明治43年(1910)の架け替えまで通行する人々を支えました。
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                                                        消防組と4代西浦圓治
4代圓治は弘化3年(1846)に3代圓治の子として生まれ、初名を五郎兵衛、後に圓治と改めました。明治21年(1888)に5代圓治に代を譲って隠居すると、耕と名を改め、明治28年(1895)に50歳の若さでこの世を去りました。また4代圓治の娘婿には明治29年(1896)に設立された多治見貿易合資会社の社長として活躍した西浦猪三郎
がいます。
 50年という短い生涯の中でも、4代圓治は多治見橋架橋以外にも多治見にとって重要な役割を果たします。そのころ人口が増加し住宅が密集していた多治見では、火災が人々の生活の中で最も恐ろしいことの一つでした。都市部や城下町、宿駅には江戸時代より火消組などの組織がありましたが、多治見のような村落には消防組織はありませんでした。明治10年代に多治見の住宅密集地で相次いで火災が起こったこともあり、明治17年(1884)に4代圓治は私設の多治見消防組を組織しました。竜吐水という消火ポンプを2台備え、火の見やぐら・まとい・梯子・鳶などの設備も用意しました。この私設消防組の組織が近隣住民への刺激となり、その後の公設消防組へとつながっていきました。
参考文献 「多治見市史通史編上」(多治見市 1980年)
      「多治見市史通史編下」(多治見市 1987年)