第十一回多治見商人物語

下街道と陶磁器輸送

明治時代の下街道と陶磁器輸送
 明治33年(1900)に国鉄中央線が開通する以前の美濃焼の輸送には、今渡街道を経て木曽川を下るルートなどもありましたが、名古屋に運ばれるものは下街道を通っていきました。下街道は、現在の国道19号線の前身ともいえる、名古屋へ向かう際の幹線道路です。江戸時代から明治時代前期までは、馬の背の両側に陶磁器を振り分けて積むのが一般的でした。やがて、一度に運搬できる量を増やすために、荷車が用いられるようになります。東濃地方の早いところでは明治20年代から馬車が用いられましたが、陶磁器の集積地である多治見から名古屋を目指すルートの下街道で最大の難所だったのが、現在は岐阜県と愛知県の県境になっている内津峠です。朝、陶磁器を満載して多治見を発った馬車は、峠を前に麓で休憩しながら次に来る馬車を待ちました。次の馬車が到着するとその馬を借りて、2頭立てにして峠を登り、頂上にいたると、荷物をいったん置いて馬を再び戻し、もう1台の馬車を引き上げたそうです。麓に近い池田町屋村(現・多治見市池田町)では、駄賃をもらっては馬車を押し、手助けする人もありました。また、名古屋の入口に当たる庄内川の河畔には、馬車引きに酒食、馬には飼葉や水を与えてくれる茶屋があって、そこで一服してから大曽根の坂を上がり、夕方に名古屋の問屋に荷を降ろし、その夜は市内の馬宿(馬車とも宿泊可能な宿)に泊まって疲れを癒したといいます。
馬頭観音
 馬はかつて、農耕や運送など生産と流通の重要な担い手として大切にされ、死ねば馬頭観音像を供養塔として祀るなどしました。馬頭観音は仏教の守護神ですが、牛馬に関係する職業の従事者が、その供養や無病息災を願った民間信仰的な存在でもありました。江戸時代後期からは、石仏だけでなく文字を刻んだ石塔も造られます。馬頭観音は、愛馬の墓標として屋敷内に建てたほか、往来時に交通の難所で馬が息絶えた場合はそこに埋め、その上に馬頭観音を祀ったようです。こうした路傍の馬頭観音は境の神や道祖神への信仰とも習合し、村境や辻に祀られるようにもなりました。辻に建てられて道標を兼ねたものもありますが、それはこうした例のひとつです。多治見市内と可児市内の馬頭観音を見る限り、江戸時代には主に村を単位とする集団が施主でしたが、幕末から明治時代以降の施主名を調べると、「馬持中」「馬方連中」「馬車連中」など、馬による運送を行う人々との関連が認められるようになります。この時期に、馬頭観音信仰と輸送集団が強く結びついたようです。下街道の難所であった内津峠では、運搬途中に馬が疲労で動けなくなったり、馬方が帰りに飲酒して川に落ちたりすることもありました。明治27年(1894)に建立された内津峠の馬観音にも、「馬車」「荷車」という銘が刻まれており、こうした輸送集団が内津峠での安全を祈願したもののようです。

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荷馬車
(多治見市郷土資料室提供)
内津峠の馬頭観音
(多治見市郷土資料室提供)

[主要参考文献]
多治見市 編『多治見市の石造物目録』(1975)

可児市成人大学歴史講座 編『可児市の石造物』路傍編 (1983)
可児市成人大学歴史講座 編『可児市の石造物』神社・寺院編 (1987)
多治見市 編『多治見市史』通史編 下 (1987)
財団法人 名古屋陶磁器会館『名古屋陶業の百年』 (1987)