第十回多治見商人物語

中央線多治見駅開業

 

中央線多治見駅開業
鉄道は、物資の大量輸送を可能にし、短時間に遠隔地への人の移動を可能にした近代化の象徴ともいえる技術です。明治維新後、政府はいち早く欧米から技術を導入し、明治5年(1872)に新橋―横浜間で日本初の鉄道が開通します。
中央線は、明治29年(1896)に八王子と名古屋に鉄道局出張所が設けられ、東西両方面から建設工事が始まり、明治33年(1900)に中央西線の最初の路線として、名古屋−多治見間が開通します。このとき多治見駅は、土岐川を挟んで多治見町の対岸、当時の豊岡村に設置されました。駅開業により、周辺には運送店や旅館などが建ち並ぶようになり、村は一気に活気づきました。
その後、明治35年(1902)には、土岐津(現土岐市駅)−中津(現中津川駅)間が、明治44年(1911)に八王子−名古屋間がつながり、中央線は全線開通に至ります。 
トンネル工事と西浦円治による煉瓦生産
中央線の建設にあたっては、トンネルや橋梁に数千万個の赤煉瓦が使われました。その多くは愛知県で製造されたものですが、一部は多治見町の西浦円治(5代)が自ら煉瓦工場を設立し、焼成を行いました。
西浦円治は煉瓦の調達を「他方より仰ぐは遺憾なり」として、自ら製造に乗り出すことを決意します。「西浦煉瓦工場」は、明治27年(1894)に設立され、職工数男40名女20名計60名、1基15馬力の蒸気機関が設置されたことが記録されています。同時代の西浦焼を生産した製陶所の職工数42名、駄知の籠橋休兵衛の製陶所25名と比較しても、煉瓦工場が規模の大きなものであったこと
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が分かります。明治32年(1899)の多治見町議会議事録には、円治が玉野街道(愛岐道路の前身)に専用のレールを敷き、トロッコで煉瓦を工事現場まで運搬したことも記録されています。しかし、西浦による煉瓦生産の詳細は記録がなく、煉瓦を焼成した窯も妻木坂(現多治見市坂上町から本町付近)にあったと伝えられますが、今ではその場所も定かではありません。
美濃焼の鉄道輸送
 重量のある陶磁器は、鉄道開通により飛躍的に輸送量が増加した物資です。多治見駅開業により、東濃地方各地で製造された美濃焼が、多治見駅へと集められ、全国へと発送されるようになります。国内の各窯業地においても、鉄道による陶磁器輸送は行われましたが、多治見商人はとくに鉄道をうまく利用しました。大正元年(1912)の主要鉄道駅陶磁器発送量をみると、多治見駅の発送量は約2万4千トンで、名古屋駅を凌いで全国第1位、それに瑞浪、土岐津を加えると、東濃地方の鉄道駅からの発送量が他を圧倒していたことが分かります。
 また、多治見商人は自ら鉄道に乗って、全国へ美濃焼の販売に出かけていきました。陶磁器の見本を詰めた風呂敷包みやカバンを背に多治見駅を出発していく番頭さんの姿は、昭和40年代頃まではよく見られる光景でした。鉄道の路線に沿って1駅1駅下車し、各地の陶磁器問屋をくまなく巡り歩いた先人たちの努力が、美濃焼を日本の家庭へと行き渡らせる原動力となったといえます。
大正元年(1912)主要鉄道駅陶磁器発送量
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〈主要参考文献〉
多治見市教育委員会2014「旧国鉄中央線トンネル群(愛岐トンネル群)の文化財的価値についての調査報告」『多治見市文化財保護センター研究紀要』第12号