第六回多治見商人物語

陶器商人物語 加藤助三郎

「多治見商人」加藤助三郎について、明治22年10月10日発行の「東濃旬報」(写真1)では陶器将軍として紹介されています。内容は「東京陶器会、山栄会を設け毎月6日に定期の陶磁器入札会を開催するもので、日本橋通り3丁目壽亭にて内外何人を問わず購入者の臨席を仰ぐ」記事です。
何故36歳で「陶器将軍」とまで云われていたのか。助三郎の活躍を履歴書(写真2)に基づき記します。
多治見市本町に店を構え陶磁器販売を商いとしていた助三郎は、市之倉町に生まれ、明治3年2月(14歳)から同4年2月(15歳)まで商業研究のため東京へ行き学び、同5年5月(16歳)東京深川区安宅町に陶磁器販売店「美濃屋」を開く、美濃産地よりの独立出張店の嚆矢と言えるものです。その後、同10年に「濃栄組」さらに「濃栄社」と称する株式会社組織となり同22年に「満留寿商会」として陶磁器卸売問屋を開設しました。
海外貿易
幕末から明治初期の貿易は、横浜・神戸に店を構えた欧米の商館に商品を売り込み買い上げてもらうもので、当時は不平等条約の状況下で商いは難しい状況でした。
やがて同22年に助三郎は、農商務省に願いシンガポール・香港・広東・天津等の日本領事館へ陶磁器250点2219個を送り販売を試みる。このように初めは領事館を介しての商いであったようです。助三郎は、欧米にも販売を行うが同28年に日本は念願であった不平等条約が改正され諸外国と対等と成れたことにより、同29年に前田正名による実業団体(五二会)などが組織され外国との貿易上の交渉を円滑に進める動きが出てきました。助三郎は東京五二会の創立委員となり陶磁器の輸出を推進しました。同32年には南アフリカはケープタウンへ直輸出を開始。同32年政府派遣清国陶磁業視察のため五ケ月間渡航し商取引・標本購入(写真3)などを調査したことにより、のち日清貿易が盛んになりました。同35年にはインド貿易品を製造して販路を広げています。
鉄道輸送
同24年鉄道運送株式会社の創立を発起し東京府庁の認可を得て、鉄道局に運賃の特別割引を請願。従来は船積みであったものが鉄道となり、陶器貨物の便利を図る。その後名古屋駅停車場前に支店を設置、さらに大阪駅停車場前に支店を設立し名古屋大阪間の陶器貨物輸送上の利便を図る。同28年には、名古屋陶器運輸合資会社の発起人となり取締役となる。同33年多治見駅構内に数萬の陶磁器が雨ざらしのため、構内に倉庫建設を願い逓信省に出頭、総務長官に許可を得て百五十坪の倉庫を建築して洪益を図る。同34年多治見駅に陶磁器貨物堆積するため、鉄道局へ貨車増発を請願、運輸課長に面談し増発を得て希望を達せり。美濃焼が全国に運ばれて行く要因になりました
また助三郎は、全国の陶産地を巡り殖産振興の方策について講演をしている。まさに将軍にふさわしく陶業界の発展を願う行動でした。