第十六回多治見商人物語

美濃焼技術の変遷A(明治時代)

(承前)岐阜県立多治見工業高等学校には1,500点を超える近代の陶磁器資料が所蔵されている。その中に、他の例をみない89点もの製作年代を記すラベルが付された資料郡が存在しており、引き続き、これらを通じて美濃焼技術の変遷を追っていきたい。

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5「摺絵染付雲鶴文徳利」(明治16年のラベルが添付 以下、年号のみ記載)は、摺絵の技法を用いたものである。文様を切り抜いた型紙の使用によって、手描きに代わる効率的な絵付け方法となった。

多治見市史によれば、「明治15年(1882)のころ、脇之島の上田幸右衛門は伊勢白子から型紙職人長谷川久之助ら三人を招いて型紙をつくらせた」とされ、その始まりの時期と製作年がおおむね符合している。この技法は、陶磁器に関わる国内需要の高まりに伴って導入されたものであり、量産体制を確立していく美濃焼産地の嚆矢となる出来事といってもよい。摺絵による雲鶴の文様をつぶさにみると大変緻密に施されていて、量産のための技法とは言え一切の手抜きは見られない。なお、89点の資料中に摺絵製品は、他にも明治19年、同28年、同44年の3点が存在し、次に記す銅版転写の導入以降は急速に衰退していったとの指摘もあるが、実際には併存していたことがうかがわれる。また、後年に至るほど粗雑なものとなっていく傾向も見受けられる。

6.jpg6「銅版染付小皿」


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7「銅版染付花鳥図小皿」


6「銅版染付小皿」(明治21年)、7「銅版染付花鳥図小皿」(明治21年)は、先にも触れた銅版転写を用いて絵付けを施したもので、摺絵に続く、一層効率的な絵付技法である。多治見市史には、「明治21年、渡辺町(現、広小路4)の加藤元次郎、窯町の加藤米次郎らが、名古屋より銅版彫刻師を招き、多額の金を与え製作法を教わった。…後に岐阜県陶磁器講習所(多治見工業高校の前身)の嘱託教師となる太田能寿は、加藤米次郎らの銅版印刷の研究を聞いて、これに参画し、明治22年に特許を取ることができた」
とある。これら両製品についても、ちょうどこの時期に完成したものであり、摺絵同様に最初期に作られた製品には緻密な絵付けが施されていて、大変に完成度が高い。以降、長らく美濃焼の日用品に施される絵付技法の主流をなしていくこととなり、本資料中にも数多くの銅版転写製品がみられる。

こうした製品を通じて気づくのは、年号が記された各資料が、毎年膨大な量の陶磁器がつくられていたなかで無作為に抽出されたものではなく、技法の導入期などの特別な意味を持ったものとして選択されていたということである。今日、美濃焼の歴史を裏付ける貴重な作品群を形成しており、改めて加藤助三郎の先見の明を称えたい。

(次号に続く)